夏の匂いと、白いカーテン越しの、あなたを思い出す。
白いカーテンの向こう側
(……あ)
渡り廊下を渡った第二校舎。
その、ちょうど俺の教室と向かい合わせになって見える音楽室から、今日もあのひとのフルートが聴こえてきた。
退屈な授業の、澄んだBGMになる。
音楽室自体は見えるが、その室内は、白いカーテンが邪魔で、いくら視力両目二.0の俺でさえ見えない。
あのひとの姿を見られないものかと、頑張って目をこらす。
開け放した窓から、夏の心地良い風が泳いでくる。
「こらシラサキ。そんな一生懸命にどこ見てんだ」
黒板をチョークでカッと叩き、教師がこちらを睨んでくる。
クラス全員の視線が、俺に注がれた。
「いや、あの、べつになにも」
「嘘言え、音楽室でも見てたのか? どーせ、トバリウミのフルートに聞き惚れてたんだろ」
どっと教室に笑いの波が来た。
俺は一瞬どく、と心臓が鳴るのを感じてから、とりあえず苦笑いを浮かべた。
トバリ、ウミ。
先生が言ったのは、きっと彼女の名前。
あのひとは、ウミさんと言うのか。
たった一度だけ、廊下ですれ違ったことがある。
白い肌に、焦げ茶色の髪。
右手に銀色のフルートを持っていた。
大きな目を細めて、他の女子達と笑顔で話をしながら、すれ違う。
俺が一年だから、先輩であることは確実。
ただ、その一瞬だけ。
その一瞬で、俺は彼女を忘れられなくなった。
顔は覚えているが、名前さえ知らなかったということに今更気づく。
俺の中では、いつだって「あのひと」だったから。
「三年七組の戸張羽美、な」
「今日お前が見てたヤツ」と、茶化すようにニイと笑ってから、アキは俺の机に、シャーペンで「戸張羽美」と書いた。
「見てねーよ」
俺は半分嘘で否定してから、あまり食べる気もしないメロンパンを頬張りつつ、机に目を落とした。
「ウミ」は、美しい羽で、「羽美」と書くのか。
変わった名前だと思うと同時に、あの儚げな笑顔に、よく似合っていると思った。
「三年生かァ」
「吹奏楽の県大会みたいなやつで、個人フルート二位獲ったんだよ、確か」
アキは金髪の長い前髪を鬱陶しそうに掻き上げた。
今年の入学早々、髪の色で停学になったこともあったのだから、いい加減に黒に染めたらいいのにと思う。
「頭脳明晰……では無いか。別に秀才ってわけじゃねえらしいけど、美人なのは確か。大学も音大行くんじゃねえ?」
「へえ……。ていうか、お前なんでそんなに知ってんだよ色々」
「ファンですから」
「嘘だろ」
「嘘だよ」
俺は「嘘かよ」とすこし笑ってから、机の「戸張羽美」の文字を、消しゴムで消した。
机の色がすこし混ざった消しごむカスを払い落とす。
「秋弘ー、先生が呼んでたぞー」
不意にどこからか友人の声が飛んできた。
「うわっ」アキが途端に顔を歪めた。
「やべえ、携帯持ってきたことばれたかな。じゃ、俺行くからっ。メロンパンくれ!」
「え、あ、あぁ……」
アキは俺の手から食べかけのメロンパンを奪い取ると、頭をがしがしと掻きながら、教室を出て行く。
腰ポケットからはみ出るストラップが、ちゃらちゃらと揺れているのが見えた。
昼ご飯は食べる気がせず、結局それはアキに持っていかれ、これといってすることが無くなった俺は、とりあえず教室をでてぶらりと歩き出した。
良い天気だ。
廊下にも、風が吹き漂っている。
室外なら、もっと心地よいことだろう。
「……」
俺は屋上へ向かった。
がちゃりと思い扉を開けた先に見たもの。
そのとき俺は、まるで多分一生分の運を使い果たした錯覚に陥った。
夏の風に吹かれて舞う、長い髪をそのままに、美しいフルートの旋律を奏でる。
ずっとみつめてた、ひとの姿。
「、……」
彼女は俺に気づくと、フルートの音を止めた。
目が合う。驚く。あわてる。
彼女はそんな俺を、きょとんと見つめた。
それから、
「……いいお天気ですね」
彼女はふわりと微笑んだ。
一瞬、その言葉の意味を理解できなかったが、きっと良い天気だから、あなたも屋上へ来たんでしょうと言いたかったのだろう。
彼女はそれ以上なにも言うことなく、またフルートを吹き始めた。
俺はどうすることもできず、とりあえずその場にことんと腰を降ろす。
恥ずかしくて、なんだか輝いていて、照れくさくて、その姿をまともに見ることはできなかった。
感じたのは夏のもどかしい匂いと、ただ静かで柔らかな、彼女の音。
見つめたのは空の飛行機雲。
それから
、多分一週間くらい経って、夏休みまであとわずか、という日。
ぽつりと、彼女のフルートは聴こえなくなった。
「戸張羽美、転校したんだってさあ」
アキが俺の机に頬杖をついて、そう言った。
「なんかフルート関連で仕事依頼されて、色々あって都心に引っ越すことになったんだって。よく知らんけど。すっげえよなあ、三年でこの時期に転校とか」
「……そう」
ひゅうっと、心に風が吹いた。
アキが目の前で盛大かつわざとらしいため息をつく。
「ファンだったのになあ」
「……嘘だろ」
「嘘だよ」
「お前戸張羽美のことすきだっただろ」
「うん」
「うわ、嘘だろ?」
「嘘だよ」と、また半分嘘で言葉を濁した。
恋というには、あまりに曖昧で、儚くて、幼かった。
ファンとか言うほど、小さくて、簡単で、単純な想いじゃなかった。
じゃあなんて言うのかと聴かれれば、ただ、よくわからない。
彼女が去ってから変わったこと。
授業が退屈になったことと、音楽室を見ることがなくなったこと。
ということはやはり、俺は彼女が居ると明確だった音楽室を見ていたのか。そうか。
一度も名前を呼ぶことはなかった。
俺の名前を、彼女が知ることもなかった。
言葉を交わすこともなかった。
だけどその笑顔は、俺がずっと望んでいた、白いカーテンの向こう側にあったもの、なのだろう。
そして彼女は、今度こそもう届くことのない、カーテンの向こうへと行ってしまった。
あの日の
夏の匂いも
短い影も
静かな旋律も
熱いコンクリートも
飛行機雲も
もどかしい距離も
むつかしい想いも
溶けるほど遠い空も
ちいさな記憶のなかの、青い時間。
『いいお天気ですね』
fin.